長年、数々の山を登ってきましたが、私にとって熊や滑落と同じくらい、あるいはそれ以上に神経を使うのがブヨの存在です。登山家の間でブヨとは、沈黙の暗殺者のような存在として語り継がれています。標高がそれほど高くない低山から、美しい沢沿いのルートに至るまで、奴らは確実にそこに潜んでいます。登山中にブヨに襲われると、その後の登攀の集中力が著しく低下し、事故を招く引き金にもなりかねないからです。ブヨの恐ろしさは、その「執拗さ」にあります。彼らは一度ターゲットを決めると、数キロメートルにわたって追いかけてくることもあります。特に登りで息が上がり、二酸化炭素を大量に排出している登山者は、彼らにとって絶好の標的です。ブヨとは、単なる虫ではなく、自然の過酷さを象徴する試練の一つだと言えるでしょう。私が山へ入る際、必ず装備に加えるのは、顔全体を覆う防虫ネットと、自作の高濃度ハッカ油スプレーです。休憩中に少しでも肌を晒せば、一瞬で群がってきます。特に耳の裏や首筋、手首の隙間など、わずかな隙を突いてくる能力には驚かされます。また、登山後の温泉や着替えのタイミングも非常に危険です。達成感で油断している隙に、駐車場や登山口付近に潜むブヨに刺されるパターンは枚挙にいとまがありません。ブヨとは、それほどまでに私たちの生活圏の境界線で待ち伏せをしているのです。もし仲間の登山者がブヨに刺されたら、私は迷わず持参している最強クラスのステロイド剤を手渡します。初期消火が間に合わなければ、翌日の下山時に足が腫れて靴が入らなくなるような事態も起こり得るからです。山を愛する者として、ブヨとの付き合い方は永遠の課題です。彼らは清流という豊かな環境のバロメーターでもありますが、私たち人間にとっては厳しい自然の洗礼そのものです。山に入るということは、彼らのテリトリーにお邪魔するということ。その謙虚な気持ちを持って、万全の防護を整えることが、山を真に楽しむためのマナーだと考えています。ブヨとは何か、その真実を肌で感じた者だけが、本当の意味での「山の深さ」を知ることができるのかもしれません。