あれは私が登山を始めて間もない頃、晩夏の北アルプスを縦走していた時の出来事でした。その日、私は「山での遭難時に目立ちやすいように」という理由で、新調した真っ赤なマウンテンパーカーを着用していました。赤色なら蜂には見えない、という古い知識をどこかで耳にしていたこともあり、何の疑いもなくその服で樹林帯を歩いていました。しかし、その過信が大きな危機を招くことになったのです。尾根沿いの開けた場所で休憩を取ろうとした瞬間、どこからともなく一匹のキイロスズメバチが現れ、私の周囲を執拗に旋回し始めました。驚いたことに、ハチは私のすぐ隣にいた白いシャツの登山者には見向きもせず、一直線に私の胸元、すなわち「赤い布地」に向かって体当たりを繰り返してきたのです。私はパニックになりかけましたが、同行していたベテランの方の「動くな、目を閉じろ」という静かな指示に救われました。数分間、防護服のような厚みもないパーカーの上からハチの激しい羽音を聞き続ける恐怖は、筆舌に尽くしがたいものでした。幸い刺されることはありませんでしたが、下山後に調べて分かった事実は、私の常識を根底から覆すものでした。蜂にとって、赤色は決して「見えない色」ではなく、暗く沈んだ「黒に近い影」として認識されるのだそうです。つまり、私は目立たないつもりで、蜂の天敵であるクマやカラスと同等の「黒いターゲット」を全身に纏っていたわけです。さらに、汗をかいて湿った赤い布地は、乾燥した状態よりも光を吸収しやすく、蜂の攻撃本能をより強く刺激する要因となっていました。この体験から、私は自然界の「色のルール」がいかに絶対的であるかを学びました。人間にとっての視認性と、昆虫にとっての信号は、時として真逆の意味を持ちます。それ以来、私の登山の装備はパステルカラーやオフホワイトなどの明るい膨張色で統一されるようになりました。たとえ遭難時の発見率を考慮したとしても、蜂に襲われるリスクを優先的に排除する方が、安全な登山には不可欠だと痛感したからです。蜂が寄ってくる色、特に「黒として見えてしまう色」を避けることは、自然という聖域に足を踏み入れる者の最低限の作法です。あの赤いパーカーは、今も私の部屋のクローゼットの奥に、自然を舐めてはいけないという教訓の証として仕舞われています。皆さんも、装備を選ぶ際はその色が蜂の目にどう映るかを、今一度真剣に考えてみてください。
真っ赤な登山服が招いた蜂の襲撃と回避の教訓