あれは数年前の初秋、登山仲間数人と低山ハイクを楽しんでいた時の出来事でした。その日は少し肌寒かったこともあり、私はお気に入りの黒いフリースを羽織り、リュックも黒で統一した、いわゆる「オールブラック」のスタイルで山に入りました。おしゃれで引き締まって見えるその服装が、まさかあのような地獄を招くとは夢にも思っていませんでした。山頂近くの細い道を通っていた際、不意に耳元で「ブーン」という低い羽音が響きました。反射的に手で払おうとした瞬間、視界に入ったのは親指ほどもある巨大なオオスズメバチでした。驚くべきは、その蜂が私の仲間の白いTシャツには目もくれず、執拗に私の黒いフリースに体当たりを繰り返してきたことです。まさに、黒い布地が蜂の怒りを一点に集める標的(ターゲット)になっていたのです。パニックになりかけた私を救ったのは、経験豊富なリーダーの「走るな、姿勢を低くしてゆっくり離れろ」という冷静な声でした。私は息を殺し、蜂の波状攻撃に震えながらも、一歩ずつ後退しました。蜂は私の胸元や背中の黒い部分を執執に狙い、顎をカチカチと鳴らして威嚇し続けましたが、なんとか数十メートル離れたところで追撃を諦めてくれました。その後の休憩中、リーダーから「山で黒を着るのは自殺行為だ」と厳しく諭されました。蜂にとって黒は、自分たちの巣を壊しに来るクマの色であり、見つけた瞬間に全軍を挙げて殲滅すべき敵の象徴なのだそうです。あの時、もし私が蜂を叩いていたら、仲間を呼ぶフェロモンが撒き散らされ、今頃は病院のベッドの上だったかもしれません。この一件以来、私の登山の常識は根底から覆されました。今では夏でも秋でも、山の装備は必ず白かライトグレー、ベージュといった明るい膨張色で揃えています。また、自身の黒髪も大きなリスクであることを学び、必ず明るい色の帽子で頭部を完全に覆うようにしています。さらに、カメラやスマートフォンのケース、水筒に至るまで、黒い小物を持ち歩くことさえ慎重になりました。自然の中では、私たちは単なる訪問者であり、そこには独自のルールが存在します。蜂の視覚特性を理解し、彼らを刺激しない色を纏うことは、自然に対する最低限のマナーであり、自分自身の命を守るための絶対的な鉄則です。あの秋の日に感じた、黒い服を叩く蜂の衝撃的な振動は、今でも私の教訓として深く刻まれています。これからアウトドアを楽しもうとする皆さんに伝えたいのは、一着の服の色が、あなたの運命を左右することが本当にあるということです。