ある夏の日の昼下がり、私はいつも通り夕食の準備を始めようと米びつの蓋を開けました。しかし、その瞬間に目に飛び込んできた光景は、私の平和な日常を粉々に打ち砕きました。お米の表面に、小さな黒い点がいくつか動いていたのです。目を凝らすと、それは長い鼻を持ったコクゾウムシでした。それだけではありません。お米が数粒ずつ不自然に固まっており、そこからは白い小さな幼虫が顔をのぞかせていました。私はその場に凍りつき、鳥肌が立つのを抑えられませんでした。「あんなに気をつけていたはずなのに、なぜ」という後悔と、大好きな白いご飯が汚染されてしまったという激しい嫌悪感。五キロ近く残っていたお米を前に、私は途方に暮れました。正直に言えば、その瞬間、お米を丸ごとゴミ袋に投げ捨てたいという衝動に駆られました。しかし、農家の方が丹精込めて作ったお米を、自分の不注意があったとはいえ、無造作に捨てることへの罪悪感も同じくらい強烈に襲ってきました。その夜、私は一晩中インターネットでお米の虫について調べました。毒はないこと、洗えば食べられること、昔の人は当たり前のように虫を避けて食べていたこと。知識を詰め込めば詰め込むほど、「捨てるのはもったいない」という理性が働きます。しかし、翌朝、再びお米を目の前にすると、やはり私の体は拒絶反応を示しました。お米を研ぐ際、水に浮いてくる黒い影や、お米の中に隠れているかもしれない卵のことを考えると、どうしても炊飯器のスイッチを押す気になれなかったのです。結局、私は三日間の葛藤の末、そのお米を食べることを断念しました。ただし、ただ捨てるのではなく、庭の家庭菜園の土に混ぜて肥料として還すことにしました。「食べる」という形ではなく、別の形で命を繋ぐ道を選んだことで、私の心の重荷は少しだけ軽くなりました。この一件以来、私の家ではお米の保存方法が劇的に変わりました。五キロの袋をそのまま置くのをやめ、二キロずつ小分けにして冷蔵庫の野菜室で保管することを徹底しています。あの時の絶望感と、お米を無駄にしてしまったという苦い記憶は、今でも私の心に深く刻まれています。虫が湧いた米を「食べたくない」と感じる自分を甘いと責める必要はない、と今は思えます。大切なのは、その失敗から何を学び、次にどう活かすかです。現在は、虫一匹いない真っ白なお米を炊き上げ、一口ひと口を心から美味しく味わえる日々に、以前よりもずっと深い感謝を感じるようになりました。
虫が湧いた米に絶望した私の決断とその後